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輪中

輪中ってなあに

 輪中とは木曽三川下流に住む人がみんなで力を合わせて堤防を守ったり、水の管理(かんり)をしたりするところです。100年以上も前には80以上の輪中があり、水を利用して、水とともに生活をしてきたところです。このため、どこの家にも舟があり、自動車が無かったときには、歩いて荷物を運ばなければならなかったとき、家から田や畑に行くにも舟で荷物やとれたものを運ぶことができ、どこへ行くにも舟が使われたために便利な生活ができました。しかし、一か所でも堤防が壊れるとその地域一帯が被害を受けるため、輪中の人々の団結は強く、輪中根性といわれるようにほかの輪中との競争意識が強いところです。
詳しくは「輪中についてへ」
輪中のでき方
断面図

いつできたの

 輪中がいつ作られたかは、はっきりとはわかりません。千年以上も前という説や七百年ほど前という説、四百年ほど前という説などがあります。長島では四百年ほどの前の地図が残っているので、少なくともそれよりも前には輪中が作られていました。

どうやってできたの

 大昔、濃尾平野の西南部は伊勢湾が入り込んでいた海でした。今でも長島から大垣市や岐阜市まで、自然の坂道のない平らな地面が広がっています。この浅い海に土や砂が運ばれて山沿いに平らな土地が広がったり、川の中州や海の中に島のようなものができたりしました。そこに人々が住むようになると、自分たちの命や大切な田畑を守るために堤防を作りました。すると、まわりの地面よりも高い(安全な)堤防の上に家を建て、堤防以外の土地はほとんどが田になりました。だから今も輪中地域の家のほとんどは、昔堤防だった高いところに列状(れつじょう)に並んでたっているところが多いのです。
500年ほど前の長島の地図
500年程前の長島
堤防の上に建つ家
堤防の上に建つ家

どうやって守ったの

 このような土地(地域)では、堤防の内側(田があることろ)は低くて平らな土地であるため、堤防が一ヶ所でも壊れてしまうと、すべてが水につかり、場合によっては流されてしまうことになります。このため、堤防ができると自分たちの命や大切な田畑を守るために、自分たちだけで堤防を守らなければならなくなります。長島では、全部の島が堤防で囲まれていますが、山に面したところでは半月上の堤防のところもあります。しかし、堤防が壊れるときは地震以外では、川の水が増えたときに限られます。このため雨が降れば川の水がどこまで来ているかを見張る人が必要となります。この人のことを水番といい、みんなが交代で行いました。そしてますます川の水が増えてくると、この地域のお寺や神社の鐘や太鼓が打ち鳴らされます。この合図を聞いた人々は、まず、家の中の家財(かざい)道具を天井裏などに片付けます。最も重い仏壇(ぶつだん)などは、天井裏に滑車(かっしゃ)をつけ天井まで吊り上げた家もありました。
この後、その地域の人々はみんなで協力して堤防を守りました。たとえたった一人の人が協力しなかったためにたった一ヶ所でも堤防が壊れてしまえば、その地域全部に被害が及ぶわけだから、気持ちをひとつにして協力して堤防を守りました。今でもこの協力するという考え方は残っており、洪水に備えた防災訓練も毎年行われます。
130年ほど前の長島
150年ほど前の長島
150年ほど前の長島
130年ほど前の長島

 洪水になると田畑は流されて、収穫ができなくなることもありましたが、川が近くにあるということは水が豊富にあり、ため池や用水路を作る必要もありませんでした。また、洪水になると、水とともに山のほうから栄養豊富な土や砂が運ばれてくるので、水が引いた洪水の次の年はいつもの二倍ほどの作物が収穫されたといわれています。その上、この地方は冬の間ほとんど雨が降らないため、作物を作りにくかったのですが、木曽三川という大きな川の豊富な水で、一年中水を入れることができたので、いつでも作物を作ることができました。特に木曽三川下流では菜種が作られました。
田園風景
 「昔の長島は堤防の水門をあけると一斉に水が 入ったので、田の水はいつでも使えました。 また、冬の間は田を菜種畑などに作りかえ、一年 中作物がとれました。」
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